メッセージ
遺族の立場からみなさんへのメッセージ
(膵がん患者の支援されている眞島喜幸さんより)
私は、40代の妹を膵臓がんで亡くしました。2004年の夏に妹から電話があり、鎖骨の上のリンパ節が腫れており、生検をして膵臓がんとわかりました。当時は使える抗がん剤は1剤しかなく、妹のようにステージ4の場合、5年生存率はほぼ0%でした。6か月生きることができるのだろうかと心配しながら抗がん剤治療を始めたのを覚えています。
私の役割は、応援団長で、妹が抗がん剤治療を受けることに専念できるように支援することでした。母も叔母も妹の家に行き、中学生になったばかりの甥っ子とご主人の世話をしていました。また、妹が膵臓がんと聞き、ご主人の会社の方を始め、母のお友達など、さまざまな方が救いの手を差し伸べてくれたことは、妹や家族にとり非常に心強く、また、嬉しかったことでした。
膵臓がんと闘う妹は死刑宣告されたような状態のなかで闘病することになりましたが、また家族も「第2の患者」と言われるように、同じようにストレスがかかっていました。唯一の救いは、当時カリフォルニアから日本に紹介されたがん患者や家族のための「こころのケア(サイモントン療法)」を家族全員で受けて、ストレスをコントロールすることがそれなりにでき、妹は家族とともにいまを生きることに専念できたこともよかったと思います。また、妹の好きなデズニーランドにも家族全員で行くことができ、よい思い出を作ることができました。
がんが脊椎に転移し、治療も大変だったころ、妹が小学生の頃に一緒に行った千鳥ヶ淵に「さくらを観に行こうね」と約束しました。そして翌年4月に転院することになったとき、迎えの救急車が玄関につき、主治医、看護師の人たちが出てきてくださり、妹を見送ってくださったときは、本当にありがたく思いました。車で千鳥ヶ淵の満開の桜を観ながら、新しい病院にいったことを覚えています。妹は49歳で亡くなりましたが、よくがんばってくれたと思います。
その後、妹家族のような悲しみがなくなるよう、米国に本部のある膵臓がん患者支援団体パンキャンの日本支部を立ち上げました。これも自分自身には、セラピーだったのかも知れません。また、「グリーフケア(悲嘆回復ワークショップ)」にも参加し、遺族としてのこころのケアも受けました。
妹の病気のお陰で、私自身さまざまな体験をさせていただきました。また、自分自身にできた膵臓がんも早期に見つかり命拾いしました。これも妹のお陰と感謝しています。人生いろいろなことがありますが、厳しい膵臓がんになっても、家族とともに生きることを大切にしなければいけないということを妹の体験を通して学ばせていただきました。私も、妹同様に一生懸命生きたいと思います。
パンキャンジャパン
眞島喜幸