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精神腫瘍学について
精神腫瘍学(サイコオンコロジー)とは?
皆さんは「がん」という病気についてどのようなイメージをお持ちでしょうか。「がん=死」、「怖い病気」、「今では治る病気」、「痛みで苦しむ病気」など様々なイメージをお持ちの方がいらっしゃるのではと思います。
まず、わが国におけるがんという病気の位置づけを、疫学的な側面からご紹介したいと思います。がんは1981年にわが国の死亡原因のトップにとってかわり、現在もその第一位の座を保ち続けています。現在では、がんによる死亡者数は年間37万人を超え、総死亡の約30%を占めています。また年間100万人以上の方が新たにがんと診断されています。私達が暮らしている今の時代では、人々の2人から3人に1人の方が、その生涯のうちにがんを経験する時代なのです。実際に私自身の親族を見渡してもがんを経験した者が幾人もおります。このようにみてみますと、がんは誰でも罹患する可能性のある致死的な疾患の代表といえそうです。一方では、がんは、その5年生存率が約60%にまで向上するなど新しい治療が飛躍的に進歩している病気であるとも言えます。
それでは、もし、人が、「がん」という病を得たとしたら、その人の心はどのような経験をするのでしょうか。現在では、がんの告知もすすみ、治らないがんであっても率直に伝えられることも稀ではなくなってきています。治癒が望めないがんを抱えた際には、あるいは終末期にさしかかった時に、人はどのような心の状態を迎えているのでしょうか。
精神科医であるキューブラーロスは、がんで死にゆく多くの患者と関わった経験から、人が生命に終焉を迎える過程における心の状態として、否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容という五つのステップをたどってゆく、としました。一方、自殺学を専門としていた心理学者のシュナイドマンは、人は人が生きてきたように死んでゆく、と記しています。どちらが正しのでしょうか?
がんは、生物学的には、無秩序な増殖をする悪性の腫瘍のことを指しますが、社会的な「意味」にも影響を受ける疾患の一つでもあります。たとえば、何か好ましくないものを形容する際の比喩として、あれは何々にとっての「がんだ」という表現などをときに耳にします。がんというイメージが社会の中で認識されていく過程でもたらされた結果の表現なのでしょうが、逆にいえば、このようなイメージが社会に存在していることを示しているのではないでしょうか。このように、我々が日々生活している社会の中において、がんのもつ何となく醜悪で忌み嫌われるイメージが潜んでいることを想像することは難しくありません。このような意味で、がんという病は社会とともにあるとも感じます。従って、がんを経験した患者さんの心の動きを深く理解しようとする営みには、がんの生物学的な特徴のみならず、がんという疾患を取り巻く社会や文化的な状況の双方に対しての理解が必要なのです
前置きが長くなってしまいましたが、このような、「がん」と「心」の関係を扱う学問領域を精神腫瘍学(サイコオンコロジー)といいます。サイコオンコロジー(Psycho-Oncology)という言葉は、サイコロジー(Psychology: 心理学)、サイカイアトリー(Psychiatry: 精神医学)およびオンコロジー(Oncology: 腫瘍学)などという用語から成り立つ造語です。日本語としては、「精神腫瘍学」と翻訳されています。サイコオンコロジーは、欧米でがんの診断病名を患者さんに伝えることが一般的になった1970年代に産声をあげた、まだとても若い学問です。
がんは昔、不治の病でした。つまり、「がん=死」だったのです。しかし、外科手術が可能となり、1809年には、がんに対する歴史的な手術として、卵巣がんに対する手術治療が行なわれました。以降、外科手術そのものの進歩により、さまざまな臓器に対する手術が可能となり、さらにはがん治療としての放射線治療や化学療法が急速な進歩を遂げるに至りました。これらがんに対するさまざまな治療が飛躍的な進歩をとげ、治療成績が向上することにより、「がん=死」というコンテクストは必ずしも正しいものではなくなってきました。時をほぼ同じくして、米国でインフォームド・コンセントに関心が集まるようになります。このように、がんに対する治療成績の向上に加え、適切なインフォームド・コンセントに基づく医療を推進しようという米国での社会運動が相まって、1970年代に入り、がんという病気であっても、真実を患者さんに伝えたうえで治療を行なうことが一般的になったのです。このような時代の流れを背に受けて、がん患者の心理的・社会的な問題点の診療および研究に関心が寄せられることになり、サイコオンコロジーという学問領域が生まれました。
ここで、われわれが生きている現代社会における医療という視点からサイコオンコロジーの誕生の経緯を考えてみたいと思います。近年の医療技術の発展には、まさに眼を見張る勢いがあります。がんに関しての生物学的な研究も進み、がんが発生してくるメカニズムは、数多くの遺伝子の変化が蓄積して起こる多段階の機構であることも解明されてきました。新聞やテレビの報道で、最先端の医学研究の成果に触れることも珍しくありません。最近では、がんに対する治療として、分子標的治療などといった耳慣れない治療のことをお聞きになることも多いのではないでしょうか。一方で、自然科学は、どうしても再現性や客観性などを重視しますので、学術研究の中心は、必然的に主として臓器や病気に向かい、それゆえ、本来、医療の中心であるべき「病を抱えた人間」の側面をつい忘れてしまった観が否めません。実際、現代の医学に対して、身体や臓器は診るが、「人間を診ない」という批判を耳にすることもさほどまれなことではありません。新聞の投書欄で現代医療に対する批判を目の当たりにすることも決して珍しいことではありません。最近では、「ドクハラ」なる言葉すら目にします。このような時代の潮流のなか、がんの医療においても、病の原因となっている生物学的側面のみならず、人の心理や行動、あるいは社会的側面も含めた広い視座から患者さんをとらえ、より良質な医療を提供する必要性が認識されるようになってきました。
サイコオンコロジーは、こういった時代を背景として、従来ともすると軽視されがちでした「がんが患者さんとそのご家族の心に与える影響」と「心や行動ががんの罹患や生存など身体的な転帰に与える影響」という二つの大きな側面を明らかにすることを目的として生まれたのです。このような意味においては、サイコオンコロジーは、医療技術の革新的発展がもたらす「光」の背後に存在する「影」の部分に対峙する学問であるといえるのかもしれません。
ここまでのところでは、主として、サイコオンコロジーの一つの柱であります「がんが患者さんとそのご家族の心に与える影響」という観点から、サイコオンコロジーが誕生して経緯についてご紹介いたしました。次に、もう一つの柱としての「心や行動ががんの罹患や生存など身体的な転帰に与える影響」をご紹介したいと思います。こちらの領域では、たとえば、一定の性格傾向、病気に対するストレスコーピングやライフイベントなどの心理・社会・行動学的要因が、がんへの罹患しやすさやがん罹患後の生存期間などの身体的転帰に影響を及ぼすのか否かを扱います。本領域は、いわば「病は気から」という古くから存在する概念を、がん医療の現場において科学的に検証しようとう試みであるともいえます。これは、がんになりやすいタイプCパーソナリティをはじめとしたcancer prone personalityの存在が提唱されたり、がんに対しての前向きな闘病姿勢やがん患者に対する集団精神療法の提供が、がん患者の生存期間の延長に寄与する可能性が示唆されたりしたことを端緒として広く関心を集めることになりました。以降、幾つかの追試研究が行われてきていますが、現時点ではこれら要因、中でも心理的要因の生存期間への影響に関しては結論が得られていません。一例をあげますと、生存期間の延長に寄与する可能性が示唆されていた転移性乳がん患者に対する集団精神療法の有効性を無作為化比較試験で検討した追試研究では、QOL向上には寄与するものの、生存期間には影響を与えなかったことが示されています。わが国からの最近の報告としては、性格傾向とがんへのなり易さを検討した追跡研究がありますが、本研究において、がんになりやすい特定の性格傾向の存在は見出されていません。科学的な批判に耐えうる良質な研究はまだ少ない一方で、人々の関心は高いため、今後の研究の蓄積と指針の作成が望まれている分野です。
最後に、人間科学的な視点から、サイコオンコロジーの役割をご紹介させていただき、稿を終えたいと思います。
人は人であるがゆえに「こころ」をもち、そしてだれもが病に心を痛めます。ある者は病から解放され、ある者は病との共存を余儀なくされます。このような当たり前の心の領域を学問として扱い、ご家族が経験される心の痛みにも積極的に焦点を当てる、それが、サイコオンコロジーという学問です。換言すると、がんという疾患が有する生物学的側面よりも、病を抱えた「人」の部分により焦点をあて、人として当たり前にケアするために、そして人の心ががんに与える影響を解明するために生まれてきました。そういった意味で、サイコオンコロジーは、現代の医学、医療の進歩の陰に置き忘れられてしまった感のある、人の心をケアするという営みを医療の中に適切に組み込む役割を担っています。そして、個々の医療者がこの当たり前のことを、日々の職務に当たり前に織り込むようになったとき、あるいは、がんが医療の進歩により完全に制覇されたとき、サイコオンコロジーはよい意味でその使命を終えることができるのでしょう。他の医学の領域もすべてそうなのかもしれませんが、恐らく、サイコオンコロジーの究極の目標は、安心してその存在意義を失う状況を到来させることにあるのだと感じています。
明智龍男(名古屋市立大学大学院医学研究科 精神・認知・行動医学)